池田晶子「知ることより考えること」
はじめに
池田晶子という文筆家を知っているだろうか。
慶應大学文学部哲学科卒業。哲学の専門用語を使わず、「哲学するとはどういうことか」を日常の言葉で語る作品を数多く残した。「残した」と過去形になっているのは、2007年に46才という若さでお亡くなりになったからである。
彼女は私が大好きな作家の一人。小学校高学年の時にこの本に出会って、一気に哲学が好きになった。彼女の作品を読むと、爽やかな風が吹いたような感覚を得て、
「ああ私はこれを求めていたんだな。」と思うのである。
哲学むずい
この本を読む以前にも哲学者の本は読んだことがあった。
だが小学生の私は、何とも言えないイライラを感じていた。
一言で言えば、「これ読ませる気あんのか???」
古典や名著と呼ばれる本に共通していたのは、読み手をガン無視した書き方。
特にドイツ観念論がひどい。
ウィトゲンシュタイン、ヘーゲル、カント。
哲学を専門にしている人なら理解できるのかもしれない。
私は専門で勉強してきたわけではないけど、純粋に興味があって理解したかった。
でも哲学の巨匠たちにことごとくその好奇心をへし折られてきた気分だった。
私は哲学という学問が好きである。
哲学はものの見方を教えてくれるし、「大事なことを正しく考える」という思考トレーニングになると思っている。
「知って、理解していれば」有用な学問である哲学を難解な言葉と構文で、狭い狭い学者だけの世界に閉じ込めていることにイライラを感じていたんだと思う。
そんな時に出会ったのが、池田晶子だった。
本屋さんでたまたま見つけて、表紙が可愛かったので買った(簡単)
読んでみるとめちゃくちゃ面白かった。
最近あったニュースや身近な話題について小学生でもわかる言葉で論じていくスタイル。読み進めていくと「なるほど、哲学ってこういうことか」と分かる。当時の私には衝撃的だった。この方のおかげで、哲学を好きになれたと言っても過言ではない。
「知ることより考えること」
科学による情宣活動のおかげで、現代人は、宇宙とは自分の外側に存在する、その意味で自分とは無関係の物質の世界のことだと、思うようになっている。(中略)いやそんなことはない。それらは全て自分に関係する出来事だ。なぜなら、それら宇宙の出来事、その複雑な進化の結果、この自分は存在しているのだから、と人は言うかもしれない。
しかし、それなら、その複雑な進化の結果、この自分は存在しているこの自分、その自分はいつどこから存在するようになったのか。あるいは「自分」はどこに存在するのか。
(中略)父母が関係した時点で自分は生じ、その自分とは「脳」であるというのが現代人の一般的な見解である。そんな馬鹿なことはあるまい。もしも自分が脳であるなら、なぜその脳が自分であると自分には分かるのか。
(中略)当たり前なことを言っていると思うだろう。そうだ、当たり前だ。恐るべき当たり前だ。ゆえに、この当たり前こそが、恐るべき謎なのだ。脳ではないところの自分は、したがって宇宙から生じたのではない。いったいこれは何なのか。
「自分」と「宇宙」はどうも同じようなものらしいとわかってくる。私が宇宙のことを考えているのは、自分のことを考えているというのと、実は同じなのである。
多くの人は、このような考え方をしないと思う。「宇宙」というと空の遠くにある、ぽやーんとした概念で、「自分」のことを考えると言うと、自分本位だと言う。
しかし、池田は「人生とは、自分が宇宙に存在していること」だと断言している。
自分の人生について考えること、それすなわち宇宙について考えることなのだ。
宇宙について考えられない思想は二流である。世には幾多の思想、批評、評論の類が並んでいるが、自分が存在していると言う事実から、独自の宇宙論を形成しない思想は、偽物とは言わずとも二流である。マルクスが哲学者として、二流である理由も同じである。彼は自分とは物質すなわち脳であると、最初から思い込んでいた。だから、所詮は社会思想化の域を出なかったのである。しかし、人が一度真正の謎、宇宙すなわち自分とは何かの謎に目覚めれば、社会思想は眼中になくなる。無視するのではない、それが何をしているのか、「宇宙の側から」よく見えるようになるからである。
我々には、社会を変えようとするより先に、するべきことがある。それこそが本当に確実な道なのである。ただし少々時間はかかる。しかし宇宙の時間を想えばいい。
もう最高にロック。大好き。
この本の最初に上記の宇宙論が書かれている。
そしてこの本の最終章が「私の神秘体験」と言うタイトル。オカルトとかそう言う類の話ではない。宇宙論と関連した話になっている。
私の神秘体験
前回は「オーラとカルマ」について考察した。そして、知り得ないことについて知っているかのように語られることは物語であると言った。あれらは取りも直さず、オーラとカルマの「物語」なのだと。
物語とは、文字通り物語なのだから、本当でも嘘でもない。知り得ないことについて本当とも嘘とも言えないのは決まっている。しかし、あれらの物語を求める人はおそらく、あれらの物語を「本当だ」と思っている。別の言い方をすると、それを「信じる」それによって人生の意味と理由が与えられたように思うのである。
しかし、そのような仕方で与えられる人生の意味と理由は、それ自体が物語である。ひょっとしたら嘘かもしれないことを信じていても、救われたような気になれれば、それでいいのだろうか。それで「本当に」救われたことになっているのだろうか。
人が何らか神秘的なもの、「神秘体験」 に惹かれるのもおそらく同じ理由である。科学により説明できないことを神秘だ、すごいと感じるのは、本当の神秘を感じていないからである。オーラやカルマや臨死体験を神秘だと言うなら、自分が存在しているということは、どうして神秘ではないのか。
何かを神秘だと言うためには、何が神秘でないかを言えなければならない。ほとんどの人は、自分が存在していると言うことを神秘だとは感じていない。そんなことは当たり前でわかり切ったことだと思っている。だから生まれる前とか、死んだ後とか、どこか別のところへ神秘を探しにいくのである。そして、神秘を見つけて、神秘だと騒ぐ。そんなことができるのも、自分が存在しているからこそだというこの神秘には、どう言うわけか驚かないのである。
私にとっては、自分が存在しているというこのこと以上の神秘はあり得ない。自分が存在しているというこのことは、科学的には説明できず、理性によっても理解できない。何でこんなものが存在するのかわからない。なんで存在するのかわからないものが存在し、それがこの毎日を生きているなんて、とんでもないことである。驚くべき神秘である。私には毎日が神秘体験である。
実際、「存在する」と言うことは、それ自体で生死を超越しているのだから、「生前」「死後」が眼中になくなる。逆に、存在の神秘の前には、そう言うものは全て物語だということが、はっきりと見えるのである。「毎日を生きている」と、とりあえず言ったが、その意味では毎日が死に瀕している。毎日が臨死体験である。生きていることの神秘を知れば、死後の神秘に用はない。
古人は言った。生死事大。無常迅速。つまらない物語を追いかけている暇に、本当のことを知らなければならない。当たり前のことを知る方が先なのである。当たり前でないことは、その後でいいのである。「超常」をする前に「常識」を知れという常識的なことだ。本当の神秘とは、一輪の花が咲くことであり、地球が回っていることであり、我々が生まれて死ぬことである。そんなことは科学で説明できると思っている、その時点で道を誤っている。当たり前の神秘に驚かずに、人生の意味と理由が理解できるはずがない、
なるほどこの世には、霊能者、霊媒、魔法使いその他、「常人」が所有する人は存在する、普通の人には見えないものが見える、できないことができる。「物語が語れる」単にそれだけのことなのだ。
だから例えば、非常に有能な霊能者が現れ、宇宙以来の全歴史が見えると言っても、私はその人が何を理解しているとも思わない。あなたの全人生のカルマはこうだと言われても、私は自分が何を理解したとも感じない。人生が存在する、存在が存在することの神秘は、いかなる仕方によっても理解することができないということを、私は理解しているからである。
本当にそうだなと思う。私はたまに母親とこれに近い話をすることがある。
母親の昔の話を聞くたびに「本当に私ってよく生まれてこれたよね(笑)」と思う。
まず母親自身が、小さい頃に何度も死にかけているから。笑
ど田舎出身なので、田んぼにはまって動けなくなったとか、自動車事故に遭いかけたとか、変な人に追いかけまわされたとか、もうネタは尽きない。よく生きてんなと思う。
頭はよかったのになぜか「女子は大学に行かない」という「常識」にのっとり短大に行き、働きたくなかったのに父親(私から見た祖父)に銀行にぶち込まれ(いわゆるコネ入社)そこで父と職場結婚した。(ボンボンとのお見合いは断ったらしい。。)
重要なのはこれら全ての経験が何1つ欠けても、私は生まれてこないことだ。
母が祖父母から生まれてきて、いろいろあって死にかけたけどちゃんと生き残って、父と結婚して何かしらのタイミングで関係を持って私がポーンと生まれてきた。
これってすごくね???
もう奇跡としか言いようがない。
出産は医療技術が発達した現代においても、命がけの行為だ。
そんなに身体が強くない母が、私を産んだのは正気の沙汰ではない。
ちょっと頭おかしくないとできないのでは、とさえ思う。(ごめん)
だって死ぬかも知れないんだよ?
実際、出産して体調崩して亡くなるお母さんは少なくない。
そんな中で、母も私も生きている。なんか理由はわからんけど存在している。
すごいことだな〜。。。。しみじみ
話は少し変わる。
この本に出会ったのは、小学生の時だった。
少し時間が経って中学生になった時、ガラッと環境が変わって、
いじめられたり、父親がいなくなったり、いろいろと辛いことが重なったりして、気持ちが不安定になったことがあった。
一時期はそれこそ「死んだ方が楽になるかな」とか頭に過ぎるライトな自殺願望があった。
でも行動に移さず、踏みとどまれたのはこの本のおかげかもしれないと思う。
はっきりとこの本の、この言葉を思い出して救われたんだ、ってほどではないけど
無意識に刷り込まれていて思いとどまれたのかも、と読み返して思った。
私は生きているというだけで奇跡なんだ。
私は生きているだけで素晴らしい存在なんだ。
この本を読むたびにそう思える。
日本では10歳~39歳までの死因1位は「自殺」(厚生労働省自殺白書H30年度版)であり、世界で比較してももロシア・韓国とともに「若者の死因自殺率」が高い(厚生労働省「諸外国における自殺の現状」)
生きづらい、死にたいと思っている人がこの国には大勢いる。
かつて私もその一人だった。
でも「生きているだけで素晴らしい」ということを理解した時に本当に救われたと思った。
今、辛いと感じている人はすぐにそれを解決するのは難しいかもしれない。
だけどいったん立ち止まって「自分が存在している」ということに思いを馳せてみて欲しい。
「こうあるべき」「私はこうじゃなくちゃダメなんだ」みたいな考えに自分を縛り付けてないだろうか。
私を縛り付けるものは何もない。あるのは「私が存在している」という奇跡。
それだけだ。